教学根拠をひもとく

無明の闇を破る

【親鸞聖人】
「阿弥陀如来は、無明の闇といって、すべての人々の苦しみのもとである、後生暗い心を一念で破ってくだされ、絶対の幸福に救うと、誓われている。これを、阿弥陀如来の本願と申します。
 その阿弥陀如来のお約束通り、絶対の幸福になることこそが、なぜ生きるかの答えなのです」
(『世界の光・親鸞聖人』第4部)

【根拠】
 「已能雖破無明闇
 (已に能く無明の闇を破すと雖も)」(正信偈)

『世界の光・親鸞聖人』第4部で、親鸞聖人が日野左衛門に人生の目的を説示なされる場面 がある。
親鸞聖人「ところで日野左衛門殿。どう生きるかも大切だが、なぜ生きるかは、もっと大事だとは、思われませんか。どう歩くかよりも、なぜ歩くかが、もっと大事ではありますまいか」
日野左衛門「なぜ生きる……」
親鸞聖人「さよう。皆、どう生きるかには一生懸命だが、なぜ生きるか、を知りませぬ 。のお、日野左衛門殿。それだけ皆、一生懸命生きるのはなぜか。それこそ、最も大事ではなかろうか」
人は何のために生まれてきたのか、なぜ生きているのか、どんなに苦しくても生きねばならぬ のは何をするためか
歩く、走る、泳ぐ、飛行機が飛ぶ……、どんな場合も、目的地を定め、それから手段を考えるであろう。
タクシーに乗った時を思い出せば分かりやすい。運転手に最初に告げるのは目的地である。「どこどこの何番地にある○○まで行ってほしい」と行き先を伝え、その後、「三つ目の交差点で信号を左に曲がって、突き当たりを右に行き……」と行き方を教えるのではないか。目的地を伝えずにただ「走ってくれ」と言ったならば、運転手を困惑させ、いたずらに時間と金銭を浪費してしまうだろう。
人生もまた然り。ただ生きるだけならば、苦しみの連続で終わってしまう。
日野左衛門「なぜ歩くかが分からねば、歩く苦労は、無駄か……。なぜ生きるかが、分からねば、生きる苦労も、また無駄 か……。そう言われれば……、そうだ。俺は、一生懸命生きることが、一番いいことだと思っていたが……、なぜ生きるかの一大事を、俺は忘れていたのか……」
親鸞聖人「それをハッキリ教えられたのが、仏法を説かれた釈尊なんですよ」
日野左衛門「エエッ!そんな教えが……、仏法……?」
親鸞聖人「そうです。お釈迦さまは仰せです。大宇宙には、数多くの仏さまがおられる。それらの仏が、本師本仏と仰がれるのが、阿弥陀如来です」
日野左衛門「阿弥陀如来……」
親鸞聖人「阿弥陀如来は、無明の闇といって、すべての人々の苦しみのもとである、後生暗い心を一念で破ってくだされ、絶対の幸福に救うと、誓われている。これを、阿弥陀如来の本願と申します。
 その阿弥陀如来のお約束通り、絶対の幸福になることこそが、なぜ生きるかの答えなのです」
 人生の目的は何か、ズバリ教えられている。なぜ生きるかの答えは、苦しみのもとである無明の闇を破ること。だから卒業があり、完成がある。親鸞聖人はそれを『正信偈』に、「已能雖破無明闇」と示された。「已能雖」が、卒業、完成の意。「已に破れた」、と明らかである。
 では、全人類の苦悩の根源、無明の闇とは何か。
 後生暗い心、死んだらどうなるかハッキリしない心。死後は有るのか、無いのか。有るなら、どんな世界か、一切分からない。後生真っ暗がりの心である。
 未来が暗いと現在も暗くなる。百パーセント確実な未来後生が真っ暗がりだから、現在も常に不安で、何をやっても心から喜べない。この無明の闇がある限り、生命の歓喜などあろうはずがない。
 人間に生まれてよかった!という生命の大歓喜が体験させられるのは、阿弥陀如来の本願によって無明の闇をぶち破っていただき、絶対の幸福に摂取せられた時である。この世界に出るために我々は仏法を聞くのだ。
 万人が求めてやまぬなぜ生きるかの答えを開顕してくだされた親鸞聖人は、まさに「世界の光」である。

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