教学根拠をひもとく

火宅無常の世界

【親鸞聖人】
「この世は、無常の世界。すべて移り変わってゆく。よろずのことは、皆もって、空事・たわごと、真実はない。ただ、阿弥陀如来の本願のみがまことだと、釈尊は説かれています」
(『世界の光・親鸞聖人』第4部)

【根拠】
「火宅無常の世界は、万のこと皆もって、空事・たわごと・真実あること無きに、ただ念仏のみぞまことにて在します」(歎異鈔)

 上記の台詞は、『世界の光・親鸞聖人』第4部で、聖人が平太郎に諭されたお言葉である。
「この世は、ひさしに火のついた家に居るように、常のない、不安な世界である。ただ、阿弥陀如来の本願だけが、不変不壊の絶対の幸福に救いたまう、真実なのだ」
 人の世の実相と生きるべき方角を、ズバリ、明示しておられる。
 人は何かを信じ、あて力にしなければ、生きられない。
 妻は夫を信じ、夫は妻を信じ、親は子供をたよりにし、子供は親をあて力にして生きている。その他、自分の身体や生命、財産や金銭、家や名誉や社会的地位 など、何かをあて力にして人間は生きている。だから、「生きる」とは、「信ずる」ことといえる。
 神や仏を信ずるばかりが信心ではない。昔から「鰯の頭も信心から」と言われるが、つまらぬ ものでも信じていればその人の信心である。すべての人は何らかの信心をもっているのだ。
 ところが私たちは、ただ生きているのではない。幸福を求めて生きている人ばかりである。そして一切の苦しみ悩みを厭うている。
 苦しみ悩みはどこから起きるのか。信じていたものに裏切られたとき、人間は苦悩に襲われる。病人の苦悩は健康に裏切られたからであり、家庭の悲劇は夫を信じ切っていた妻が、夫に裏切られたからである。子供に裏切られた親、親に裏切られた子供。家の子供にかぎってと深く信じていればいるほど、裏切られたときの親の苦悩や悲しみ怒りは大きくなる。
 私たちは何かを信じなければ生きてゆけぬが、やがては我々を裏切るものを信じて生きるのは馬鹿げている。
 しかし釈尊は、「諸行無常」と教えられた。私たちの信じているものは、無常であり、必ず、裏切ってゆくものなのだ。一切は、時とともに変転し、止まることがない。物も心も人生も、絶えず変化し、常住しない。
 コップも茶碗も、机も椅子も、目に見えずとも、変形している。数年も経てば、傷ついたり、変色したりで、肉眼でも、ハッキリと分かるようになる。
 東京タワーや大阪城天守閣、マンハッタンの摩天楼など、豪壮な建造物も年月とともにもろくなり、建て直しの時期がやってくる。
 燦々と輝く、あの太陽さえ、50億年後には、滅してしまうという。
 好景気は続かず、総理の地位もやがては交替、家族といえど、永久に共にはいられない。
 大きく変化するか、少しずつ変化するかの違いはあっても、この世に変化しないものは何一つないのだ。
 最後は、この身体さえ、焼いてゆかねばならぬ。
「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」
と、蓮如上人は、『白骨の章』で教えられた。
 地震、洪水、火災などがいつ私たちを襲うか分からない。一寸先は闇である。噴火山上で舞踏をしているのが私たちの姿ではないか。
 たまたま災害から免れても、死から逃れることはできない。臨終には金・財産・地位 ・家族すべて、世間虚仮・空事・たわごとで、あて力にはなり得ないのだ。
「火宅無常の世界は、万のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無し」
 聖人が仰有る通りである。
 諸行無常の世にあって、本当に信ずべきものは何か。
 親鸞聖人は、断言せられた。「ただ念仏のみぞまことにて在します」。真実の幸福は、阿弥陀如来の本願に救い摂られる以外にはありえない、と。これを聖徳太子は、「世間虚仮、唯仏是真(世間は虚仮なり、唯仏のみこれ真なり)」と仰せられた。弥陀の弘誓を聞信し、永遠に崩れぬ 幸福の身になることこそ、人生出世の本懐なのである。  

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