アニメに学ぶ「親鸞聖人」

「弟子一人も持たず」の真意は?

【Q】
 どうして親鸞聖人は、「親鸞には、ひとりの弟子もあり申さぬ」と仰有ったのでしょうか。

【A】
『世界の光・親鸞聖人』第4部には、次のような場面があります。
 白昼の下、剣をかざした山伏・弁円が、聖人のお命を奪おうと、稲田の草庵に乗り込んできたのです。ところが弁円は、親鸞聖人の尊容に接するやいなや、その場に泣き崩れてしまいました。
弁円「お許しくだされ!親鸞殿。稲田の繁栄をねたみ、己の衰退をただ御身のせいだと憎み、お命を狙っていたこの弁円。恐ろしい、思えば恐ろしい、羅刹であった。どうか、どうか、今までの大罪、お許しくだされーっ!」
聖人「いやいや弁円殿。そう言われると親鸞、恥じ入るばかりでござる。そなたの方が、ずっと正直であられる」
弁円「正直?」
聖人「いかにも。まこと言えば親鸞も、憎い、殺したい心は、山ほどあり申すが、それを隠すに親鸞、ほとほと迷惑しておりまする。それにひきかえ、弁円殿は、思いのままに振る舞われる。素直な心が、うらやましい」
弁円「親鸞殿。こんな弁円でも、助かる道がござろうか」
聖人「何を言われる弁円殿。こんな親鸞をも、阿弥陀如来は救いたもうた。煩悩逆巻く、罪悪深重の者こそが正客、との仰せの、弥陀の本願じゃ。何の嘆きがあろうか」
弁円「あーっ、親鸞殿。こんな弁円も、弥陀の本願の正客とは、それはまことか……。どうか、この弁円を、お弟子の一人なりとお加えくださるまいか。お願い申す。お聞きくだされーっ!」
聖人「いやいや、弁円殿。親鸞にはひとりの弟子も、あり申さぬ 」
 弟子は一人もいない、と親鸞聖人は仰有っています。
「如来大悲の恩徳は
 身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も
 骨を砕きても謝すべし」
「唯仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲を恥じず」

と不断の報謝に燃え、人に教えて信ぜしめることに全生命を投入なされた親鸞聖人に、心底より従って、共に、正法宣布に挺身したお弟子がなかったはずがありません。
 事実『親鸞聖人門侶交名牒』などには、聖人に親しく教えを受けた数多くの門弟の名が記載されています。
 その数は現在ある数本の
『交名牒』と、『二十四輩牒』(覚如上人が関東に巡教された時、提出させられた連署)や、聖人が京都に還られてから、門弟たちに出されたお手紙にみえる名前などを重ね合わせてみると、60数名から70名近くの熱心なお弟子があったことが分かります。真仏房、性信房、順信房、如信房、唯円房、蓮位房、明法房など、その錚々たる方々ですが、その分布もかなり広く、たとえば真仏房は下野国高田に、性信房は下総国飯沼に、順信房は常陸国鹿島に、如信房は奥州大網に在住して活躍していたことが知られています。その外、会津、和賀、藤田、武蔵国太田などにも門弟が散在していたことが知らされます。
 これらの弟子たちはみな、親鸞聖人が法然上人に対して抱かれていたと同じ崇敬の念を持っていられたことは、蓮位 房が夢の告げに親鸞聖人は弥陀の化身なりと、感得したという伝記の話などで、いかに親鸞聖人を深く敬慕していたかがうかがわれます。
聖人が、『歎異鈔』に、
「親鸞は弟子一人ももたず候」
と仰有ったのは、歴史的事実をいわれたものではないのです。親鸞聖人はこれらの人たちを決して自分の弟子であるというようには、思ってはいられなかったことを告白なされたものです。その御心は―。
「表面上はこれらの人達は親鸞の教えによって、一大事の後生に驚き必死に聞法し信心決定した弟子のように見えるかも知れないが、真実はそうではないのである。これらの人たちが後生の一大事に驚いたのも、その解決に必死の求道をしているのもそして難中之難の三定死の境地を突破して、易中之易の無碍の一道へ雄飛し、生きてよし死んでよしの大満足の身に救われて、この大恩、いかに報ずべきかと念仏しながら猛進しているのも、まったく阿弥陀仏の独り働きであることは、自分の体験を通 して親鸞はハッキリと信知できるのである。だから、これらの人たちが求め抜き信心獲得したのは断じて親鸞の力でも計らいでもない。親鸞を縁として聞法し信心決定した人があれば、それは親鸞の力ではなく、ひとえに親鸞を通 して顕現なされた阿弥陀仏のお計らいの結果である。親鸞の力や計らいで救ったというのならば親鸞の弟子でもあろう、しかし丸々阿弥陀仏の他力のご催促によって聞法精進し、信心獲得なされたのであるから私の弟子などといえる人たちではないのである。
 9歳より29歳まで必死の求道をさせられた親鸞が、
『いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし』と、助かる望みが絶えて火達磨になって必堕無間を実感した時と同時に、久遠劫の弥陀の呼び声を聞き、こんな弥陀とは知らなんだ、よくも口が裂けなんだことよ、よくも大地が破れなんだことと、大地に身体を投げ出して懺悔させられた親鸞は、他人なんか計らって救えるはずがない。みんながこの絶対の阿弥陀仏の願力の不思議によってのみ後生の一大事に驚き、求め抜き救われるのであるから、お互い御同朋、御同行とはいえようが師弟ということはできないし間違いである」
 聖人の他力信心の真髄を喝破なされたものが、
「親鸞は弟子一人ももたず候」
のお言葉と拝されます。

 

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