アニメに学ぶ「親鸞聖人」

救いは現在か、死後か?

【Q】
『世界の光・親鸞聖人』第2部の中で親鸞聖人は、「ただ今、救いたもうた本願を喜んでいる」と仰有っています。この世で助かることがあるのでしょうか。

【A】
 親鸞聖人が、「ただ今、救いたもうた本願を喜んでいる」と言われたのは、阿弥陀如来の本願によって、後生の一大事が救われた幸せを表明されたものです。
 後生の一大事とは、死後に無間地獄へ堕ちる大事件を言います。そんな一大事があるなどと夢にも考えていない人たちばかりです。この一大事があることを知らずに自殺してゆく者、五欲に追い回されて仏法を聞こうとしない人たちを、迷える者と言うのです。そして、仏法を修養の道具ぐらいに考えているのです。これらの大衆の迷夢を打ち破り、後生の一大事があることを警鐘乱打するのが仏法です。
 しかも、この一大事は阿弥陀仏の本願を信じた一念で、ハッキリと解決できるのだ、と教えられています。これを覚如上人は『執持鈔』に、
「然れば平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。平生のとき不定の念に住せばかなうべからず」
と仰有っている通り、平生元気のよいただ今、明らかに、この一大事は解決できるのです。すなわち、いつ死んでも弥陀の浄土間違いなしと大決定心がおきると、無間地獄へ堕ちるという一大事は、まったく解消します。
 このように死んでよし、生きてよしの大安心大満足の心になったことを信心決定とか、信心獲得したと言うのです。
 かくて親鸞聖人のように、何ものにも恐れず、たくましく生き抜けるようになるのです。この真実絶対の仏法の開顕のためになら身命をも惜しまず、人倫の哢言も恥じとせず、大衆の中に飛び込んで真実に向かって猛進するたくましい人間像ができるのです。
 この世でハッキリ救い摂られる世界を明らかにされるため、親鸞聖人が善恵房証空と争われたのが、「体失不体失往生の諍論」でした。
 善恵房は死なねば助からないと主張しました。これを体失往生(体を失って後、助かる)と言います。親鸞聖人は、生きている今、後生の一大事を救ってくださるのが、弥陀の本願であると仰有いました。これを不体失往生(体を失わずして助かる)と言います。
『世界の光・親鸞聖人』第2部には、次のような場面があります。
親鸞聖人「今、溺れて苦しんでいる者に、土左衛門になったら助けると言う人がありましょうか。今、腹痛で苦しんでいる者に、死んだら治す、と言う医者もいないでしょう」
善恵房「いくらあなたがもっともらしいことを申されても、経典にないことでは仏教ではありません!」
親鸞聖人「阿弥陀如来の本願に、『若不生者 不取正覚』とあります」
(これは、「もし生まれなければ、この弥陀は仏のさとりを捨てましょう」と誓われたご文)
善恵房「それこそ、死んだら助けるということではありませんか。死なねば生まれられませんからね」
 勝ち誇る善恵房。聴衆の視線は聖人に注がれました。
親鸞聖人「死ぬとか生まれるとかは、肉体のことだけではありますまい。肉体よりも、心を重く見るのが、仏法ではありませんか。阿弥陀如来は、私たちの暗い心を、明るい心に生まれさせると誓っておられるのです」
何のために生まれてきたのか、なぜ生きるのか、なぜ生きねばならぬ のか
 人生の目的が分からず、後生暗い魂を抱えている全人類を、生きている今、大安心、大満足に救うと誓われた阿弥陀如来の御心に、参詣者は迷妄から覚めた心地であったのです。
 善恵房はすでに顔色なく、法然上人は、親鸞聖人の不体失往生に軍配を上げられました。この経緯を覚如上人は、『口伝鈔』に書かれています。
白糸と黒糸ならば、誰も間違えません。間違いやすいことだから、争いが起こったのです。
 現に今日も、「この世はどうにもなられません。死んだらお助け、死んだら極楽」と説く者のいかに多いことでしょうか。阿弥陀如来の救いを、門徒は死後の夢物語に思い、後生の一大事の上にあぐらをかいています。若者は、仏法を年寄りの慰みものとしか思わず、まったく聞かないありさまです。
 親鸞聖人のみ教えは、「平生業成」。平生に人生の大事業が完成して、何ものもさわりとならない無碍の一道に救い摂られます。生きている間に崩れない幸福を獲られるので、「現生不退」とも言われます。
 この世でハッキリ救われる世界を知らなければ、法友と争ってまで真実を開顕してくだされた親鸞聖人のご苦労が、水泡に帰してしまうことにもなりますので、共に聞法精進させていただきましょう。

浄土真宗を学ぶ月刊誌「とどろき」

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